パタヤの東大生

ペピン

高校生の頃から好きなバンドにブランキー・ジェット・シティっていうのがあるんですけど、音楽が無かったら今ごろ3人とも暴走族か基地外かヤクザで、いや20年以上前に死んでた人たちだろうなぁってたまに思います。

5日前からタイのパタヤに来ていて、思うさま疑似恋愛とお菓子みたいに笑って弾けるセックスを堪能するつもりでした。

2週間以上の禁欲生活で溜まりに溜まった白濁を吐き出す場所を探して、3日目の晩に寂れたバービアでタイの東大生みたいな女の子と出会い、クズ両親の借金を返しながら駐車した車から通学し、海外の学会にも出席するその境遇と人柄に感動し、爾来、絶対にこの子を大学卒業まで応援しようと心に決めておりました。思えば生まれた環境を笠に着てまるでエスカレーターに乗ってるみたいに有名私立大を卒業し、ヘラヘラ笑ってる奴らが我慢ならなかったのも関係なくは無かったのかもしれません。類稀な知性と根性、奨学金など無い場所でもこんな花が咲くかと思うと、応援せずにはいられませんでした。テキパで1マンバーツを稼ぐアーパー娘のすぐ側にこんな可憐で気高い花が咲いているのを、この私が見過ごす訳が無かったのです。

ところが。

意気揚々と出かけて行った昨夜のバーで、彼女は何故かバーの制服を着ておりませんで、慎ましやかな、恐らくはタイの片隅で売っているような安っぽい生地の洋服を、それでも品良く着こなし、ちょっとだけ気まずそうに微笑むと、私にこう言いました。「i have to talk somebody first,but i’ll be right back,have to take dinner」流暢な英語でそう言うと、彼女は筋骨隆々の白人男性に手を引かれ去って行ったのです。

私は昔から考え過ぎと不眠のきらいがありましたが、それは秀でた知性のためなどではなく、事実を直視しない為だけに発達させた防衛本能のためでした。鳴り響く賑やかしの音楽の中、すぐに顔だけやたら白いイサーン娘にビールを注文した私は、ほんの仮初でも良い、この憂さを払おうと、古来より愛用されてきた玉箒で降りかかる憂さを払ったのです。

それから幾星霜、私はツレと共にパタヤのありとある歓楽街を練り歩きました、玉箒をフルスイングで振り回し、時に哄笑、時に涙を浮かべながら自分を励ますように騒ぎ、踊り、精一杯強がってふざけました。

ブランキー・ジェット・シティの「ペピン」という曲は、私の好きな曲です。寒い時は毛布のように、寂しい時はウイスキーのように、いざという時はあの日の母の抱擁のように背中を押してくれたこの曲が、今日も私を正しい方へと、あるべき方へと、そして眠りの方へと導いてくれます。

コメントを残す

search previous next tag category expand menu location phone mail time cart zoom edit close